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—パウロの主張 —  使徒の働き25章13-22節

「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道者3:11)主が働かれる時、驚くほど事が進んで行く。そして、同時に人の決断も用いられる。パウロは、カイサリヤで裁判を受けた後、明確な罪の証拠がないにも関わらず、二年もの間保留された。総督が変わり、再度裁判にかけられることになったが、当然、パウロを死刑にするほどの罪の証拠は見つからなかった。パウロは、総督からエルサレムでの裁判を提案されたが上訴すること、ローマに行くことを選択した。パウロは自分自身が無罪であることは十分承知していたであろうし、上訴していなければ釈放される可能性もあった。(使徒26:32)しかし、パウロは神の使命に生きることを選択した。(使徒23:11)主のなさることの全てを私達が見きわめることはできないが、主のなさることに間違いはない。「時にかなって美しい。」という言葉は真実である。

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