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朝露のように 大槻主任牧師 20200517 [礼拝メッセージ]






私は神を信じています 使徒の働き27章1-26節

「私は、神を信じています」という使徒パウロの言葉は単純明確な信仰告白である。ただ、どんな状況でその言葉を使ったのかは、注目すべきところである。パウロが信仰告白をした時は、「絶望」の最中であり、もはや希望はなかった。パウロに同行していたルカやアリスタルコさえも「…私たちが助かる望みも今や完全に断たれようとしていた。」と感じていたのである。何日も太陽も星も見えず、止むことのない嵐の中、パウロの言葉が希望の光を指し示したのである。パウロの指し示した希望の光は「船は失われるが、いのちを失う人はいない」という主の約束であった。すべての人が絶望感に打ちひしがれている時、ただパウロだけが、主を見上げることによって希望を与えられていた。パウロが「私は、神を信じています」と語った時の状況は、何も良い兆しが見えない時である。しかし、そんな時だからこそ信仰の光は一層輝きを増し、人々を主の元へ導くのではないだろうか。主は「皆さん、元気を出しなさい…」と一人の信仰者を用いて、すべての人を励ましておられる。私たちも、どんな時であっても、主にあって希望を語る者でありたい。

「森の木々もみな歌おう」 大槻 紀夫 主任牧師 20200503 [礼拝メッセージ]








「恵みの選び」大西牧師 20200426 [礼拝メッセージ]








ローマ人への手紙11章1~10節 「恵みの選び」

「神はご自分の民を退けられたのでしょうか」ローマに在住するキリスト者は、孤独を味わっていたのではないだろうか。ローマの教会を建てあげたのは、パウロでもなく、使徒たちでもなかった。イエス・キリストの福音を聞いた者たち、いわゆる信徒が伝道し、発生したものであった。中には、エルサレムで聞いた者もいたであろうし、迫害によって、ローマに逃げたものもいたかもしれない。当然、ユダヤ人も異邦人もいたことであろう。パウロ は、ローマに行こうとしたが、道を閉ざされた。(ローマ 15:22)パウロは、 手紙を送ることで、ローマの人々に、パウロ自身が救われていることと、預言者エリヤへの神の言葉を引用し、ローマのキリスト者を励ましている「。あ なたは、一人ではない」神は、我々を恵みによって、選ばれた。それは、神の主権で行われたのである。だからこそ、神は選んだ者を見捨てたりはしな い。私たちも今、分断された中にあるが、私たちの信じる神は「決して私たちを見捨てない」と心に留め置きたい。

「森の木々もみな歌おう」  詩編96 篇

詩篇の自然嗜好は多くの詩篇に見られる。詩人の心に創造神への告白がある。聖書の神は非人格的な偶像や機械や法則や運命ではない。生きて、働き、介入し、統治し、審判されるお方である。その神ヤハウェは選民イスラエルだけの神ではない。全地、全世界、全宇宙の主である。
さて、本詩編の背景にペリシテから返された神の箱の新首都エルサレムへの迎え入れの物語がある。(第1歴代16章)族長時代の回顧を省き、その故事を回想させる神讃歌である。同時に、選民イスラエルの背信、違反により救いが異邦人に及ぶ(詩編95:7ー11×ローマ11:11)と言う不思議な摂理が描かれる。実に、神の全世界への救いの幻は、アブラハム、ダビデ、主イエスと繋がる計画の中に歴史の当初からあった。(創世記12:1ー3、マタイ28:18ー20)
こうして、「主に歌え」の三連唱(3ー6)と「主に捧げよ」(7ー9)の三連呼 で先に主を知る恵まれた私達に迫る。福音を全地に満たすために感謝、真心、宝、時間、才能、命さえ主に捧げよと神は招かれ、挑戦される。利己的自己実現には空しさが付きまとう。最後に被造世界に賛美を命ずる創造神の思いに共鳴して鳥獣、昆虫、魚も、また風雨雲も地球交響曲を奏でる。王の王、主の主による統治が始まる時、全地は讚美に満ちる。

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