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201707 大槻主任牧師メッセージ 人生最良の日々 [礼拝メッセージ]








「神の作品」  ローマ人への手紙5章1〜11節

私たちにとって、「患難」(苦難)とは何であろうか。パウロは、ローマ人への手紙を伝道旅行中のコリントから書き送っている。パウロの伝道旅行は、平坦ではなく、ある時は、極貧の中をあゆみ、ある時は石を投げられ、命を落としそうになった。しかし、パウロは、「苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3)とローマの人々に書き送っている。パウロの受けた苦難は、厳しいものであったが、同時にそこに働く神の力を確信させるものでもあった。パウロが希望を失わないのは、「神の愛が注がれているから」である。神は、私たちが弱かった頃、不敬虔な者であるにもかかわらず、命をかけて、罪から救い出してくださった。たとえ、弱くても、不敬虔でも、神は私たちを見捨ててはいない。むしろ、「救い出したい」と願っておられる。そんな「神の愛」が注がれているからこそ、パウロは信じて進むことが出来る。イエス・キリストの十字架と復活という神の愛を確信する事によって、私たちに御霊が働かれ、私たちは、苦難の中でも、神に期待し、喜ぶことができる。

「新しいいのち」   ローマ人への手紙6章1〜14節

私たちの「苦しみ」は「罪」から始まっている。創世記3章は、その始まりを教えている。「夫婦の関係」「出産の苦しみ」「労働の苦しみ」そして「神と人との関係」どれもが本来ならば、喜びで満たされるべきはずのものである。人は、「苦難」に目を止めるが、聖書は「罪」の問題を取り扱う。それが、すべての根源だからである。イエス・キリストは、その根源たる「罪」を取り除くために十字架にかかり、葬られ、3日目によみがえられた。キリストの十字架の死と復活を信じ、受け入れたものは、キリストと同じ「新しいいのち」に歩むことができる。キリストの「救い」は、すでに完成されているが、私たちの体は、この地上では弱いままである。私たちは、依然、罪の誘惑にさらされている。だからこそ、「罪に支配させる」のではなく、「あなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」と使徒パウロは語っている。「もう救われているのだから…」と安易に罪に身を任せてはならない。滅びは、私たちを巧みに狙っている。神に自分自身を捧げることに集中することこそ、すべての「苦しみの根源」から私たちを守り、成長させる唯一の道である。

—時を超えて — 使徒の働き21章27-41節

使徒パウロは、エルサレムでは「なわめと苦しみ」(使徒20:23)、預言者アガボからは「手足を縛られ、異邦人の手に渡されること」(使徒21:11)が告げられていた。しかし、パウロは御霊の働きに従いエルサレムへと進んだ。そして、その言葉通りになった。しかし、実際には、パウロの命を狙ったのはユダヤ人であり、ローマ兵に縛られたことによって命を救われた。ローマ兵は、パウロだと知って助けたわけではなかった。しかし、そのことによって、パウロはローマ兵に守られた状態で弁明する機会を得ることになった。神のなさることは、時にかなって美しい。パウロは結果的に同朋ユダヤ人たちに証する機会が与えられた。確かに危険ではあったが、ユダヤ人をはじめ、ユダヤ人指導者、異邦人が集まる最高の場所と守られた状態で語る機会が与えられたのである。また、神は、パウロを通して、ユダヤ人に語りかけるためにこの機会を作られたとも考えられる。当時のユダヤ人たちの中には幾度となく拒否した者がいたが、神は人を見捨てるようなお方ではない。全ての人に救いの機会を設けてくださっている。もう一度パウロを通してヘブル語で語るのである。神は、あなたのために、わたしたちのために、すべてを備え、導いてくださるのである。

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