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福音を生きる  使徒の働き16章6-10節

パウロは、アジアでの伝道を御霊によって止められ、ビテニヤへ行くことも御霊によって許されなかった。ところが、御霊に導かれたトロアスでマケドニア人が助けを乞う幻を見る。パウロはマケドニアへ行くことが神のみこころであると確信し、ピリピまで旅をする。神様はピリピにおいて、パウロを豊かに用いられる。16章は大きく分けて三つの物語がある。
・ 紫布の商人  ルデアという女性について
・  若い女奴隷  占いの霊につかれた女性について
・ ローマ人兵士 牢獄の看守について 
 三人が神様を知ることになった要因はそれぞれ違う。ルデアは、川岸で語られたパウロのメッセージで心開かれ、パウロの語る言葉を信じた。ルデアもその家族もバプテスマを受けた。ルデアは家庭を開放した。占いの女性は、道端で「悪霊」を追い出され「占いの力」を失う。ただ、占いの女性がバプテスマを受けたかどうかは不明である。
「占いの女性」が力を失ったことで、その主人たちの怒りに触れ、パウロとシラスは牢獄へ入れられるが、牢獄での賛美、変えられた牢獄の雰囲気、鎖が解けても誰ひとり逃げなかった状況を見て、看守も看守の家族も救われた。神様は、パウロの全てを用いておられる。神様は、私達の語る言葉、神様への態度を用いられる。神様は、普段の生活の中にこそ常に働いておられ、私達と共におられるのではなかろうか。主の働きを楽しもう。期待しよう。主は、常にあなたと共におられる。

「実現した夢」 ヨセフの生涯  創37-50章 20181125

ヨセフ命名の由来は「取り去り、加える」(創30:23、24)である。
その人生は名前通り、「悲運、不条理、苦難」が取り去られ、「幸運、摂理、成功」が加えられた。110年の生涯は17才で、父の偏愛を憎んだ兄達による暴行後、隊商によりエジプトで奴隷に売り飛ばされて
波乱が始まる。
夢繋ぎの人生は神の摂理でパロ王により宰相に抜擢され、夢解釈をした飢饉の危機管理統治を任され、見事に果たし、93年のエジプト生活の中で土着化(改名、結婚)しつつも、異質性を確保し、飢饉に際して親族存亡を移住で乗り切り、エジプト統治での主の民形成に用いられた。
その人生の特徴は、
①神の摂理の中で(ローマ8:28)・彼は、夢に導かれ、夢解釈をなさる神の計画通り事態は動いた。繰り返す、不運の中でも腐らず、疑わず、絶えず、主と共に歩んだ。
②神の時を待つ。(伝道3:1、11)啓示としての神の夢は神の時に必ず実現した。冤罪で獄中にあった時に献酌官と調理官の夢を解いた。だが、2年間忘れられて、将に、最善の機会に王の夢解釈をする運びとなった。時満ちて、その知恵、管理能力、行動力が結実した。将に、「三方良し」の活躍で、苦しみを忘却(マナセ)させ、人生の結実(エフライム)を計る神の時を生きたのである。
③神に栄光あれ。(箴言3:6,16:9,24:16)私ではなく、神です と幾度も神に栄光を帰した。(40:8,41:16,32)二人の息子の命名にも、兄達への赦しにも神の摂理を認め、栄光を帰す。(45:5-8、50:20)その姿は主イエスに重なってくる。

「 天からの梯子」20181111創世記28章

①殺意からの逃亡
ヤコブは兄エソウから長子の権利を奪ったため、憎悪による殺意を惹き起こし、母の故郷に逃亡する事となった。それは、信仰の親族からの嫁取りのためでもと言う複雑な出来事だった。
②確実な未来
不安と孤独の旅路の夜 、それは反省と孤独の中で神信頼を学ぶ時であった。ヤコブは夢を見た。天からの梯子を天使が登り降りする夢だった。神の力強い約束(父祖への約束継承)を得て、励まされて、希望が膨らんだ。
③粗削りの祈り
記念すべき出来事を記憶に刻み、自我丸出しとはいえ、ヤコブは神信従の誓願の祈りを捧げた。神の家ベテルは大切な信仰の自立の一里塚となった。20年後、帰郷の際にも原点と位置付けられている。(35章)

私を知り尽くしている神様 20181021 大槻主任牧師 [礼拝メッセージ]

詩篇137篇1-18節






それぞれの弟子訓練 20181014 大西健太郎牧師 [礼拝メッセージ]

使徒の働き15:36-16:5






主の祈り 20181007  マタイの福音書 6:9-13

主の祈りは何度も何度も使ったことがあるでしょう。しかし、さっと言わずに、ゆっくりこのみことばに考えを注ぐ価値があります。主の祈りは、何を祈るべきかということよりも、どうやって祈るのか、すなわち祈る方法、祈りの模範を教えています。天地の創造主なる神様と話せる特権を過小評価しない方がいいです。
主の祈りの最初の文章「天にいます私たちの父よ。」は多くの教えがあります。「天にいます」というのは、神様の地位、神様の権威、神様の支配を表す言葉です。
「私たち」というのは、「弟子たちやクリスチャンの皆さんと一緒に」との意味が入っています。信仰の歩みは孤独の過程ではなく、家族の中に入れていただくということです。
「父」、私たちは神様の家族だから、遠慮なく近寄っていけるのです。子供と呼んでくださったのです、パパに叫ぶことができるようになりました。「お父ちゃん、助けて」。家族なので親しさ、相続、地位、愛が与えられるのです。
誉めたたえるべきですが、近寄りやすいということは素晴しいですね。

「主イエスよ、来て下さい。」20181007 大槻主任牧師 [礼拝メッセージ]

ヨハネ黙示録 22章






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