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的外れからの脱却 20190217 使徒の働き19章1-20節

パウロは、第三回伝道旅行で、エペソを拠点に伝道した。使徒パウロは、福音伝道とともに多くの奇跡を行った。病をいやし、悪霊も追い出した。パウロの奇跡をみて、形だけ真似た者たちがいたが、反対に、悪霊の反撃にあい、酷い目にあった。そのような物事を見聞きして、エペソの「イエスをキリスト」として受け入れた人々は、自ら行なっていた習慣を告白し、魔術を行なっていた者たちは、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てた。その価値は、銀貨5万枚。かつて、悪霊を恐れていた者たちは、「主イエス」を恐れる者へと変えられた。ただ「主に従う」ことに価値を見出したのである。
「これが無くては生きていけない」と感じているなら、それは、その「モノ」に囚われている証拠である。主は私たちを「罪」から解放するために、この地上に来られた。「罪」とは「的外れ」な生活であり、神様以外のモノに頼ることである。「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべてあたえられる。」という御言葉は真実である。

健康であるように祈ります 大槻主任牧師 20190120 [礼拝メッセージ]






賛美と感謝への招待 20190101 大槻主任牧師 [礼拝メッセージ]






神の御旨ならば 教会を建て上げるために 20190127 大西牧師 [礼拝メッセージ]




「父の宣言」    創世記49章28〜33節

「ヨセフ物語」は、兄弟間のねたみによって引き起こされた事件が、神様の恵みによって、救いの物語へと変換されていく、壮大な物語である。
物語の背景には、神の主権がある。ヤコブは、息子たちに、最後の言葉を語った。その内容は一見すると、偏りがあるように感じられる。ある者には「叱責」を含み、ある者には「祝福」のみが語られる。しかし、ここにこそ、神のご計画があるのではなかろうか。
ヤコブは、息子全員を呼び寄せた。全員が、それぞれの「ことば」を聞くのである。かつての彼らであれば、ねたみに囚われてしまったかもしれない。しかし、ここで全員を集めたのは、これからは、12部族が一つとなって、神に仕えることを教えているのである。
「叱責」は、ただ単一の部族のものにあらず、「祝福」もまた単一の部族のものではない。これらは、イスラエルの民全体への「叱責」(注意点)であり、神様からの「祝福」である。だからこそ最後に「…おのおのにふさわしい祝福を与えたのであった。」(49:28)と記されている。
優劣があるように感じるかもしれない。しかし、そもそも「祝福」は、人の善行の報酬ではなく、神の恵みによって与えられるものである。「祝福」をどう用いていくのか。与えられたものを感謝して如何に活用するのかと期待されているのではなかろうか。それが、大きければ、影響も責任も大きい。
今年も、神様からの期待に共に応えて行こう。

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