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それぞれの弟子訓練  使徒の働き15章36節-16章5節

「弟子訓練」という言葉を聞くと、非常に難しいことのように感じる。
パウロとバルナバは再度伝道旅行へ出かける時、同行者を誰にするかで議論した。バルナバは「マルコ」を連れて行きたかったがパウロは使命を途中で投げ出すような者を連れて行くことには反対であった。彼らは、別々の道を行くことを選択した。
彼らの伝道旅行と弟子訓練は命がけである。喧嘩別れのような空気もあるが、反目は継続していない。後にパウロはバルナバを同労者として認め、晩年マルコも信頼できる人物の一人、と記している。パウロはシラスを同労者とした。シラスは「預言者」とも呼ばれ、Ⅰ・Ⅱデサロニケでは、書き出しに名前(シルワノ)が載せられ、ペテロが手紙を書く際にも手伝ったようだ。
そして、ローマの市民権を持っていた。パウロのよき助け手であったことが分かる。マルコやシラスの献身と成長、後に加わるテモテも、パウロとバルナバの貢献を軽く見ることはできない。しかし、彼らを伝道旅行に送り出したのはアンテオケ教会であり、テモテもルステラの教会から送り出された。
パウロとバルナバの弟子訓練には教会のサポートがあり、祈りがある。「評判のよい青年」を送り出すことも大きな犠牲である。「伝道」も「弟子訓練」もチームで行うべきではなかろうか。皆で取り組むからこそ、共に苦しみ、喜ぶことができるのである。共に仕えることができることを喜ぼう。

「黙示録の世界」  22章 20181014

象徴と幻と数字が多用される黙示文学類型で、聴く者に劇的な印象を与える。未来の天地、生死の対照的運命を描き、私達に心備えを迫る。
*永遠の天都には神殿も聖所もない。神の威光と尊厳は都に満ち溢れ毎日が喜びだ。都の豊かさはいのちの水の川(聖霊:ヨハネ7:38、39)と木々と果実(御霊の実ガラテヤ5:22、23)で表される。また美と清冽さは呪詛さるべきもの(病気、誘惑、迫害、嫉妬、無関心等罪悪)の無さに表れ、王の心(気品と栄誉)を持つ僕達(謙遜)が神に仕える。

*主の再臨が近い。あのノアの時代、洪水による審判を冗談だと笑って、日常茶飯事に埋没して滅亡したのが殆どだった。終末はノアの日のようだとの主の警告がある。(マタイ24:37ー39)
主の再来は直ぐだ。(7、12、20)キリストの弟子は信仰、希望、愛を抱いて、その日がいつであっても良い様に待望する。家族友人の救いを祈ろう!花嫁なる教会は花婿なる主の到来を熱心に待ち望む。主の溢れる御愛に包まれる喜びの完成を待ちわびて来たのだから。永遠の喜びの中に共に居て欲しいから。 
「主イエスよ、来てください!」 (注)再臨の日を決め付ける異端に、また再臨を無視する教会に注意。主イエスの初臨と共に始まった終末が、主の再臨により、エデンの園の回復以上の素晴らしい世界の完成を意味することを知ろう。

「今や、被造物全体が呻き、苦しんでいる事を知り、…自然界の贖いを待ち望んでいる」事を弁え、御霊の執り成しにより、主の御計画の完成を願って私達も祈ろう。(ローマ8:18ー22) 時は迫っている。

主の祈り 20180930  ミシェル姉  [礼拝メッセージ]






塩の柱か、地の塩か 20180923 増田 喜治 兄  [礼拝メッセージ]






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