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喜びのときにこそ 創世記46章1~7

忙しい時に、早く行きたい時に歩みを止めることは、ストレスがある。
それが喜びを伴うことであればなおさらである。
ヤコブは、愛する息子ヨセフがエジプトで生きていることを知った。かつて、獣に殺されたと知らされ、すでに死んだと思っていた息子が生きていたのである。
兄達の報告とエジプトの大臣となったヨセフの贈り物を見て、ヤコブは元気づいた。
早くヨセフの元に行きたいという気持があったに違いないが、ヤコブはベエル・シェバで立ち止まり礼拝を捧げた。
神様はヤコブに応えられ、ヤコブにエジプトに進むように励まされた。約束の地、カナンを離れることは、不安が伴ったに違いない。
しかし、神のご計画のうちにあることを確信した。
「新しく力を得て、鷲のように翼をかって登る」ことができるのは、「主を待ち望む者」である。(イザヤ40:31)
ベエル・シェバは、現代で言うところの交差点である。立ち止まって礼拝を捧げることは、様々な問題から、主へと視点を変えることである。
ヤコブは、ここからエジプトに出発した。
礼拝こそ、私たちの出発点となる。主から力を得て、前に進もう。


ユダ書 20180923

ヨセフとマリヤの子で、ヤコブの兄弟であったユダは、かつて使徒達が預言、警告した偽教師の出現に警告を与える。
福音と真の神に叛き、生まれつきのままの欲望三昧の生き方を怪しげなギリシャ二元論思想で正当化してして、自由をはき違えた異端者に注意をと教えている。
自称「霊の人」は、実は「肉の人」、旧約の例(出エジプトの不信の民、堕落天使、ソドムとゴモラ、カイン、バラム、コラ等)が証明するように神の審判に必ずあう。しかも、集会の中に平然と加わり続け、愛餐の恥辱となっている人々をを印象深く自然の比喩で語り及び、彼等の害毒と無益を暴く。
また、愛するキリスト者を励まし、あの警告を思い出しなさい。自分自身を聖い信仰の上に築き、御霊により祈れ、神愛の内に自分を保ち、守りなさいと勧める。惑わされた人々を真理で教えて、強制的にでも引き戻せとも、罪を憎んで、彼等を憐れめ、自らも悪魔の、罠に陥らぬ警戒心をもてと励ます。

愛ゆえの警告に 20180916 大槻主任牧師  [礼拝メッセージ]






キリストの教会を建て上げる 20180916

予想外のことが起こるとなかなか受け入れづらいことがある。それが、たとえ、喜ばしいことであっても難しいときがある。
「異邦人が異邦人のままで救われる」ということは、大きな驚きであった。「割礼を受けていない」異邦人が救われるのである。
忠実に律法を守って来たユダヤ人からしてみれば、あまりに気前の良い神様の行動に驚きを隠せなかったはずである。せめて、「割礼を受けてくれたら」と思ったのかもしれない。しかし、「主の救い」は、人の手によらず、完全に「主の恵み」において成就されたものである。
神のひとり子であるイエス・キリストを罪のいけにえとし、死と復活によって、罪にも死にも勝利された。だから、ペテロは証言した。
「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです。」(使徒15:11)
「恵み」であるがゆえに、誰にでも分け隔てなく、その「恵み」は注がれている。ただ「主イエスの恵み」によって、信じる者たちは、神の子供とされるのである。私たちが「一つ」とされる所以は、この事実のみあるではなかろうか。救いの道が唯一であるからこそ、その恵みに預る者たちも「一つ」とされていく。まさに「キリストの教会」である。

キリストの教会を建て上げる 20180909 大西 牧師 [礼拝メッセージ]






Ⅰペテロ3章 20180909

ペテロ晩年AD63年頃にトルコ中北部のキリスト者に宛られた手紙は嵐の中を生き抜く「希望の力」を物語る。
弾圧迫害による不当な苦難に遭うも驚き怪しまず、十字架に勝利された主に祈りつつ、奪われない祝福を受け継ぐ道を歩み続けようと。引用された「聖餐の詩編」34篇で主君サウルの憎悪、殺意に翻弄されながらも神の賜わる生き方を貫いたダビデに教えられる。敵地に迄逃亡して、正体がばれそうになり狂人を演じて危機一髪を逃れた。その心根には主に在る志、一体感、慈愛、共感力、謙遜をこそ受け継ぐために召された生死の姿には驚かされる。
私達もどんな不条理の中でも内なる「希望」を穏やかに、畏敬を抱き、神の前に居る意識で弁明出来る備えをいつもしていよう。数年後にネロ帝下で逆さ十字架に付けられ殉教したと伝えられるペテロは主の道を雄々しく貫いて主に倣った。

善行故の苦難も 20180902 大槻主任牧師 [礼拝メッセージ]








20180902「みことばを実行する人になりなさい」ヤコブ書より

「知恵が欠けた人がいるなら…神に願いなさい。ただし、少しも疑わずに、信じて願いなさい。」
信仰は信じ切ってこそ、益を得る。「心に植え付けられたみことばを、すなおに、受け入れなさい。みことばは、あなたがたの魂を救うことができます。」
仕事に、専念する余り、こども達との交わりは家内任せで、家族関係をどう築くかについて、考えてこなかった。しかし、高齢単身となった今、残りの人生で家族関係を学ぶべきと神様から示された。
この夏、孫の世話をするよい「おじいちゃん」の模範を見て、私も孫娘たちのことをもっと気にかけて、成長を楽しみたいという気になった。家内気遣っていたように、子供家族にできることはないかとようやく気が付いた。小さい子は、毎朝のように、今日は何をして遊ぼうかと、生き生きと楽しみにしている。ああこれは生きる喜びだと思い出した。もっと、神様から与えられた毎日を感謝し、大事にしよう。
そうは言え、子育ては本当に大変である。家族ごと同士、みことばを毎日の生活でどう実践するかについて、分かち合い、互いに学び合おう。交わりの中に、み言葉の新しい発見、経験の分かち合いに新鮮な驚きと喜びがある。

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