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「神の作品」  ローマ人への手紙5章1〜11節

私たちにとって、「患難」(苦難)とは何であろうか。パウロは、ローマ人への手紙を伝道旅行中のコリントから書き送っている。パウロの伝道旅行は、平坦ではなく、ある時は、極貧の中をあゆみ、ある時は石を投げられ、命を落としそうになった。しかし、パウロは、「苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3)とローマの人々に書き送っている。パウロの受けた苦難は、厳しいものであったが、同時にそこに働く神の力を確信させるものでもあった。パウロが希望を失わないのは、「神の愛が注がれているから」である。神は、私たちが弱かった頃、不敬虔な者であるにもかかわらず、命をかけて、罪から救い出してくださった。たとえ、弱くても、不敬虔でも、神は私たちを見捨ててはいない。むしろ、「救い出したい」と願っておられる。そんな「神の愛」が注がれているからこそ、パウロは信じて進むことが出来る。イエス・キリストの十字架と復活という神の愛を確信する事によって、私たちに御霊が働かれ、私たちは、苦難の中でも、神に期待し、喜ぶことができる。

「新しいいのち」   ローマ人への手紙6章1〜14節

私たちの「苦しみ」は「罪」から始まっている。創世記3章は、その始まりを教えている。「夫婦の関係」「出産の苦しみ」「労働の苦しみ」そして「神と人との関係」どれもが本来ならば、喜びで満たされるべきはずのものである。人は、「苦難」に目を止めるが、聖書は「罪」の問題を取り扱う。それが、すべての根源だからである。イエス・キリストは、その根源たる「罪」を取り除くために十字架にかかり、葬られ、3日目によみがえられた。キリストの十字架の死と復活を信じ、受け入れたものは、キリストと同じ「新しいいのち」に歩むことができる。キリストの「救い」は、すでに完成されているが、私たちの体は、この地上では弱いままである。私たちは、依然、罪の誘惑にさらされている。だからこそ、「罪に支配させる」のではなく、「あなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」と使徒パウロは語っている。「もう救われているのだから…」と安易に罪に身を任せてはならない。滅びは、私たちを巧みに狙っている。神に自分自身を捧げることに集中することこそ、すべての「苦しみの根源」から私たちを守り、成長させる唯一の道である。

—時を超えて — 使徒の働き21章27-41節

使徒パウロは、エルサレムでは「なわめと苦しみ」(使徒20:23)、預言者アガボからは「手足を縛られ、異邦人の手に渡されること」(使徒21:11)が告げられていた。しかし、パウロは御霊の働きに従いエルサレムへと進んだ。そして、その言葉通りになった。しかし、実際には、パウロの命を狙ったのはユダヤ人であり、ローマ兵に縛られたことによって命を救われた。ローマ兵は、パウロだと知って助けたわけではなかった。しかし、そのことによって、パウロはローマ兵に守られた状態で弁明する機会を得ることになった。神のなさることは、時にかなって美しい。パウロは結果的に同朋ユダヤ人たちに証する機会が与えられた。確かに危険ではあったが、ユダヤ人をはじめ、ユダヤ人指導者、異邦人が集まる最高の場所と守られた状態で語る機会が与えられたのである。また、神は、パウロを通して、ユダヤ人に語りかけるためにこの機会を作られたとも考えられる。当時のユダヤ人たちの中には幾度となく拒否した者がいたが、神は人を見捨てるようなお方ではない。全ての人に救いの機会を設けてくださっている。もう一度パウロを通してヘブル語で語るのである。神は、あなたのために、わたしたちのために、すべてを備え、導いてくださるのである。

20190623 増田兄メッセージ






人の視点 神の視点 20190623 大槻主任牧師 [礼拝メッセージ]






モーセの言い訳 20190630 ミシェル宣教師 [礼拝メッセージ]






神の作品 20190714  ローマ人への手紙5章1〜11節

私たちにとって、「患難」(苦難)とは何であろうか。パウロは、ローマ人への手紙を伝道旅行中のコリントから書き送っている。
パウロの伝道旅行は、平坦ではなく、ある時は、極貧の中をあゆみ、ある時は石を投げられ、命を落としそうになった。しかし、パウロは、「苦難さえも喜んでいます。」(ローマ5:3)とローマの人々に書き送っている。
パウロの受けた苦難は、厳しいものであったが、同時にそこに働く神の力を確信させるものでもあった。パウロが希望を失わないのは、「神の愛が注がれているから」である。神は、私たちが弱かった頃、不敬虔な者であるにもかかわらず、命をかけて、罪から救い出してくださった。たとえ、弱くても、不敬虔でも、神は私たちを見捨ててはいない。むしろ、「救い出したい」と願っておられる。そんな「神の愛」が注がれているからこそ、パウロは信じて進むことが出来る。
イエス・キリストの十字架と復活という神の愛を確信する事によって、私たちに御霊が働かれ、私たちは、苦難の中でも、神に期待し、喜ぶことができる。

主のあとに従う 20190609 大西牧師 [礼拝メッセージ]




贖いの十字架 ローマ人への手紙3章19-31節

神がこの世を創造された時、それぞれの居場所を整えてから、創造された。水には、水の生き物、地の上、天の大空には、鳥、地には、生き物を種類ごと、家畜、這うものとに創造された。
最後に神は、人を創造された。人はご自身のかたちとして創造された。造られたものは、それぞれの居場所で生活することが一番ストレスなく、よい状態であると言える。
「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」(ローマ3:24)
人の居場所は、主の御許である。人は誰もが「罪」を有している。それゆえに、主の御許に近づくことができない。しかし、キリスト・イエスの贖い(十字架の身代わり)によって、御許に近づくことが赦されている。「価なしに」である。
「幸いなことよ あなたが選び 近寄せられた人 あなたの大庭に住む人は。私たちは あなたの家の良いもの あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。」(詩篇65:4)
主の恵みに心から感謝しよう。

20190609 ハンナの祈り 第1サムエル1ー2章

紀元前1100年頃、士師時代の弱い部族連合から王制への移行期に決定的な役割を担ったのがサムエルである。その誕生物語がここに描かれる。聖所のあるシロから西に20余㌔双岡を意味するラマタイムに、エルカナと不妊であったハンナの間に、第2妻ペニンナとの葛藤の末に、奇跡的に誕生した。
ハンナの悲願の「祈りと賛歌」は歴史に残るものとなった。夫の愛を得たい。それ以上に、神の役に立つ器を世に送り出したい。その祈りは私達に語り掛ける。
①神への信頼を嘲笑うペニンナ、背後にある真の敵(ベリヤアル=悪魔)を神は遂に、裁き、勝利された。
②涙もて、魂を注ぎ出し、正直に祈り、神に問題を委ねる決心をした。祭司エリの励ましをも得て、ハンナは祈る前後で変えられた。
③神の主権への信頼と感謝が祈りには溢れている。子を授けて下さるなら、神に捧げますとのナジル誓願の通り「サムエル」は預言者(3:20)、最後の士師として生涯を主に献げた。(1:28)母に似て祈りの人であり(詩編99:6)、祝され、用いられた神の器であった。(ヘブル11:32)

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